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オードリーの最新映画情報
5月6日にいよいよオードリーのドキュメンタリー映画が日本でも公開になります:)
ゆりやんさんが、オードリーの代表的な黒のドレスを着て告知を行ってます。
なかなかお似合いですね。
ゆりやんさんのオードリー衣装はこちら
この映画を観れば、オードリーの生涯を学ぶことができます。
オードリーも一人の人間として悩みや葛藤があったのですね(涙)
内容もさることながら、スクリーンを通して観るオードリーの美しさに見とれてしまいますね。
1時間40分の映画です。
オードリーの長男 ショー・ヘプバーン・フェラー、 孫のエマ・フェラーも映画製作に参加してます。
映画を観る前に、オードリーの人生をサラッと復習しておけば、映画も倍!楽しめますよ。
永遠の妖精と呼ばれただけあって、本当に美しい女優さんだスキ。
オードリー生い立ち
ずっとオードリーは、イギリスで産まれたと思ってましたが、ベルギー産まれだったんですね。
ベルギー産まれのイギリス人。
ちなみにベルギーは、Bergium 発音はベルギーではなく、ベルジウムと言います。
ベルギーワッフルで有名ですが、ベルギーで食べた本場のワッフルよりも、日本で食べたベルギーワッフルのほうがおいしかった。。
あるあるですね。
ベルギーでおいしかった食べ物については、また別の記事で書こうと思います。
読んでね:)
1929年産まれのオードリーには、腹違いのお兄さんが2人いますが、お兄さんについての情報はあまりありません。
ベルリンの強制労働収容所に入れられたとか、入れられてないとか。
オードリーが9歳の時、両親が離婚。
第二次世界大戦が起こるなど、つらい幼少期だったようです。
戦争を逃れるため、オランダへ移り住みましたが、当時「中立国」であったオランダにドイツ軍が攻め込んだため、反ドイツ運動をしていたおじさんやいとこはドイツ軍に殺されてしまいます。
中立国とは、戦争をしない国という意味だスキ。
この時に、飢えの苦しみを経験しています。
オードリーを支えていた夢とは?
オードリー16歳の時、戦争が終わります。
5~6年間、飢えと戦争に苦しんだということですね。
戦争が終わったのをきっかけに家族でイギリスに移り住みますが、生活が貧しくつらい日々。
そんなオードリーを支えていたのが大好きなバレエでした。
オードリーは、バレリーナになること夢見て、奨学金を得ながらバレエのレッスンに励みます。
ところが!
オードリーの夢を打ち砕く衝撃の一言。。。
「背が高すぎる」
オードリーの身長は170cm。
当時にしては高かったのでしょうか。
今では、逆に背が高くないとバレリーナになれないようですよ。
バレリーナの理想体型に興味のある方はこちら。
バレリーナでも活躍できた女優さんだスキ。
時代とともに求められるものが変わるだスキ。
家計を支えるため、オードリーは働きます。
舞台や映画のわき役などのオーディションを受けまくる日々。
初のヒロイン役
大きな転機が起きる前には、一度、衝撃的なことが起きると言いますけど、オードリーにも例外なく大きな転機が来ます。
舞台作家が、ミュージカルのヒロインを探していた時、偶然、見かけたオードリーを指して
「わたしのジジがあそこにいるわ!」
と叫んだと言われています。
きっと,とてつもないオーラを放っていたに違いありません。
オードリー初のヒロイン役は、ミュージカル舞台「ジジ」でした。
当時の娯楽は、もっぱらハリウッド映画だったスキ。
ウィリアム・ワイラーとの出会い
1951年、有名な映画監督であったウィリアム・ワイラーは、後に大ヒット映画となる「ローマの休日」のイメージに合う女王役が見つからず悩んでいました。
着実に経験を積んでいたオードリーの噂を聞いたウィリアムはオードリーにカメラテストを依頼します。
実際のカメラテストの様子をテレビのドキュメンタリーで見ましたが、本当に美しいです。
すでに大物女優の気品がカメラを通してでも伝わってきました。
オードリーを採用することは、ウィリアムにとって大きなカケでした。
無名の新人女優を選ぶべきか、多くの候補の中から有名女優を選ぶべきか。
その後の活躍はご存じの通りです。
異質の新人だったオードリー
「ローマの休日」では、新人ながらアカデミー主演女優賞を受賞。
その後は、「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」などのヒット作を連発。
当時、ハリウッド女優と言えば、マリリン・モンローのようなふくよかで、髪も豊かな女性が主流であった中、背が高く少年のような体つきのオードリーは良い意味で異質な存在であり、当時の人々の目にはとても新鮮に映ったようです。
オードリーが当時の人々に強く影響を与えたもののひとつにジェラート問題があります。
「ローマの休日」の中の有名なシーンのひとつとして、階段を歩きながら、ジェラートを食べるシーンがありましたよね。
「ローマの休日」を観て、実際の撮影現場を訪れたファンがオードリーのマネをして、ジェラートを食べるので、階段がアイスクリームで汚れて掃除が大変なになり、今はジェラートを食べることは禁止になってます。
食べたら、イタリア警察に止められたスキ。
ファッション界のアイコンとしても活躍
オードリーが人々を魅了したのは、その容姿のみでなく、彼女の発言から身に着けるものまで、すべてに注目が集まっていたようです。
インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも選ばれていますし、最も偉大な女優50選にも選ばれています。
知ってる方も多いと思いますが、オードリーは最も偉大な女優50選の中の3位です。
「ローマの休日」で、ショートヘアーが特徴的なヘアスタイルは、ヘプバーンカットと呼ばれ、み~んなヘプバーンカットにしていたようですよ。
「麗しのサブリナ」では、丈の短いパンツが話題となり、その後、サブリナパンツとして大流行してます。
最も偉大な女優50選に関係あるサイトはこちら
まさに当時のインスタグラマーだスキ。
晩年のオードリー
2度の結婚、離婚を繰り返し、2人の息子を授かったオードリーでしたが、晩年は、映画ではなく、過酷な環境にさらされている子どもたちを救うことに専念します。
オードリー、50歳を過ぎたころです。
1989年、ユニセフの親善大使となり、内戦が続く、エチオピア、トルコ、ベトナムなど10ヵ国以上、訪問しています。
オードリーの活動は1992年まで続きましたが、ソマリアを訪れた後、病で倒れたオードリーは、そのまま息絶えました。
がんでした。
オードリーの人生は63年で幕を閉じました。
晩年のオードリーもとても美しいです。
オードリーの画像はこちら。
今も子どもたちのためにオードリーヘプバーン児童基金で募金活動が続いているでスキ。
アンネ・フランクとオードリー
アンネの日記で有名なアンネ・フランクとオードリーは同じ時代、同じ場所で暮らしています。
ユダヤ人という理由で迫害をされ、15歳でこの世を去ったアンネとオードリーは同い年。
当時、オランダで怯えながら暮らしていたオードリーと同じく、アンネもドイツ軍に怯えながら、オランダで暮らしていました。
接点はなかったものの、オードリーは自分をアンネを重ね合わせ、アンネはもう一人の自分と語っていたそうです。
まとめ
いかがでしたか?
5分でわかるオードリー・ヘプバーンの生涯をお届けいたしました。
戦争とは程遠い生活をしている私たちには、想像することも難しいですね。
映画の見どころは、一人の人間としてのオードリーの心の様子とフィルムからでも感じ取れるオードリーの美しさですね。
とってもいい映画だスキ。みんなで見に行くスキ!
山田スキッパー、4歳。
ミニチュアシュナウザーとして産まれたはずだった?のに、まったくミニではなく、もはや大型犬の部類。
小さいころからジャンプが得意でいつでもどこでも、ソファーからソファーまでジャンプを欠かさない日々を送っていたのでスキッパーと名づけられました。
よろしくね!
この記事を読むと5分でオードリーの生涯がわかるスキ。